パラオ
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   1990年8月25日から9月1日まで南太平洋のパラオに行った。目的はダイビング、観光。

1 パラオ

 行く前にいろいろ調べたがパラオについては観光ガイドブックに5ページぐらい書いてあるだけでくわしいことは何もわからない。ただ1899年から1914年までドイツがそしてその後1945年まで日本がその後はアメリカの信託統治の後独立したことが歴史としてのっていた。ダイビング雑誌にはダイバーのあこがれのところだと書いてあるだけ。それ以外に非常に有名なことはこの国が世界ではじめて非核の憲法をつくってもっていること。大統領がそのため暗殺されたということだ。ダイバーの楽園ということと非核の憲法なにか非常にかけはなれたことのようだがそれがこの国のぼくの知っている2つの側面のすべてだった。

 だが行ってから何冊かの本を買い読んでみるとすごいことがわかった。日本が占領していて敗色がこくなってくると日本人は自分らだけで食料をわけパラオ人にわたさなかったことやダイビングスポットのたくさんあるリーフの近くのペリリュー島ではアメリカ軍と日本軍の激戦があり1944年の3月30日の1日だけで日本の船が24隻も撃沈されて合計34隻の日本船がこの国に沈んでいる。1万1千人の日本人と2000人のアメリカ人、400人のパラオ人が死んだこと。また戦後も太平洋ではビキニの水爆実験やムルロア環礁での核実験がありパラオが非核の憲法をつくったことはちゃんとした理由があることが推察された。 現在のパラオは長い間のアメリカ信託統治で自国の通貨をもたずドル経済圏にくみいれられている。昔つかったお金は結婚式やお祭りのときのような儀式のときに伝統的な形式として使われているだけだ。アメリカの信託統治でもアメリカ人は移住してこず、たいして文化的には影響ないが日本の支配した30年間はパラオ人の2倍以上の日本人が移住してきて文化、風習に影響を与えたという。名前も日本風の人も多く暗殺された大統領もハルオ・イグナシオ・リミリ−キというしタクシーの運転手もジロウとかタダオという名前の人がいた。ブラジャーはもう日本でも使わないチチバンドという単語をつかっている。ホテルの従業員が浜辺でねそべっているアメリカのトップレスを指差し「チチバンドしてないアメリカオンナなげかわしい」と言っていた。その他ヤキソバ、チャーハンということばも使っていた。

2 地勢と気候

 人口14000人そのうち1300人がフィリピン人、日本人は約150人。面積488km2

 東経135°線がパラオの東30キロぐらいのところを走っていて明石の真南にあることになり日本と時差はない。赤道から北に800キロぐらいのところにあり、熱帯海洋性気候で年間の月別平均気温がだいたい28℃でいつも一定している。5月から11月が雨季だがぼくのいたあいだは2日に1度ぐらい10分でやむスコールがあっただけだった。

 しかし日中は暑い。コロールの家はコンクリートかトタン屋根がほとんどですずみ台のある家がかなりあった。

3 パラオの人、生活

 あまりたくさんの人とは話さなかったがタクシードライバーや店の人、ホテルの人特に非番でいたティモシーという人と話した。もっとも不思議だったのは人々がどういう産業についていてどのくらい収入があるかだ。なぜならあんまり産業がないわりにほとんどの家に車があり、10軒に1軒はモーターボートをもっていてしかも漁船ではなくたいていレジャーボートを庭においてある。物価はレストランのメニューでみると日本より高い。コーラ、ビールは安いが輸入である。島のあちこちみわたしても家庭菜園ぐらいの畑しか目につかない。いったい現金収入はどうしているのだろう。

 パラオで一番みごとなのは車のスピードである。全島追い越し禁止25マイル(40km/h)が制限速度だがそんなはやいスピードで走っている車はほとんどいない。たいてい30km/h以下である。タクシーに乗っていても徐行運転しているとしか思えない。特に国会議事堂の付近は20km/hぐらいで走る。道路を歩いていても車がスッーとすりぬけていく。日本のようにぎゅんぎゅんとばさない。ギアはサードまでで十分という感じ。またタクシードライバーが小さい島なのに以外と地理を知らない。最後の日などエアーポートにいってくれと言ってもエアーポートがわからない。発音がわるいのかと思い何度言っても首をかしげるばかり、レストランの場所もしらない人もいた。

4 ホテル、レストラン

 ぼくが泊まったのはパラオパシフィックリゾート(PPR)という東急資本のホテルでコロールの町から5キロぐらいはなれたアラカベサン島という島にある。アラカベサンとは名前からして日本人くさいがここには旧日本海軍の基地がなにかあってその跡地にPPRはたっている。この島もコロールとは橋でつながっている。PPRはパラオでは一番いいということになっている。というよりほとんどホテルはない。ほかにホテルニッコーパラオというのもあるがこれはかなり古い。次のグレースホテルは玄関が焼けたままだった。その他はモーテルなど全部で12軒。PPRはこの国で一番という看板にあぐらをかいたホテルで設備や職員はいいが経営者が最低である。ほとんど産業のないパラオだから彼らがあんまり知らないないのはあたりまえだからちゃんとホテルとしての指導をしなければならないのにしていない。たとえばバーでもメニューに書いてあるカクテル以外はいっさい知らないしできない。またダイキリと書いてあってもでてくるのはストロベリーフローズンダイキリであったりする。レストランでもおもちゃのようなワインオープナーしかなく、それであけようとするから当然コルクがちぎれてしまって栓がとれない。同じ種類の白ワインでもソーにいれてだすときやそのままおいていくときやまちまちだ。

 へやはかなり大きくてふろも広かった。プライベートビーチ、ヨット、ウインドサーフィン、テニスコートがあった。

 公共交通機関がまったくないのだからホテルで朝と夕方ぐらいコロールとの間の巡回バスをだすべきだ。ケアンズのコロニアルクラブもこことよくにた作りとロケーションだが毎時巡回バスをだしていた。しかもあそこの方が宿泊は安い。

 コロール市内のレストランは20軒ぐらいそのうち日本食レストランが5〜6軒もある。当然それらは日本人が経営している。ほかには韓国、チャイニーズ、フィリピンのレストランがありパラオ人が経営するものはあるのかないのかはっきりしない。メニューも日本占領時代の影響がつよく、やきそば、チャーハン、みそしるが韓国レストランにいってもある。営業時間が少なく11時から2時と6時から10時までで喫茶店がないこの国で3時ごろレストランで休憩しようと思っても、のきなみ閉店。さすがに中国人は商売気があり、1週間休みなしの日中も閉店なし、上海レストランで休憩した。

 カープレストランが非常に有名で経営者が岸川さんという人で広島カープの大ファン、ダイビングショップもやっていてカープアイランドという島ももっている。ここにくる前、日本のテレビでパラオの特集をしたがそのときも彼がでてきてダイビングの案内をした。どの地図にも必ずカープレストランと場所がかいてある。それでここにきてパラオ名物のマングローブがにを食べようとした。ひどいのはタクシーの運転手でパラオには20軒しかレストランがないのにカープレストランを知らない。さんざんあっちこっちいってからたどりついた。ついたところがまたすごいこれが有名なカープレストランか、日本のめし屋でも最近はもう少しきれいでしっかりしている。マングローブクラブを注文するとスペシャルメニューで20ドルと他の料理の4倍はする。それでもここで食べずにかえったら禍根を残すので注文するとチャーハンがやまもり、でっかいさしみが続き、みそスープ、やきそばのおおもり、そのあと待望のマングローブクラブがでてきた。はさみが10cmぐらいもある、かにである。おいしいにはちがいないがなぜこんなにほかの料理をはらいっぱいになるくらいつけるのだろう。チャーハンとさしみ、マングローブがにだけにしてもっと安くすればいいのにと思った。

5 ダイビング

 パラオはダイバーのなかではモルディブ、グレートバリアリーフとならんで海外では有名であこがれの国だ。理由はさかなが非常に多く、種類もおおいからだ。そしてなんとなく南洋ということで夢とロマンを想像するからだろう。

 ぼくは3日間ダイビングをした。初日はかなり海があれており、大丈夫かと思った。ダイビングの予約をホテルにたのんでおいたらホテル内にショップをもつダイビングショップではなくネコ・マリンという別のショップに予約がしてあった。それでもホテルのハーバーに迎えにきてくれた。船にのると70才ぐらいのアメリカ女性がのっていた。まさかこの人ダイビングをやるんじゃないだろうなとおもってしまう年だ。しかしこの船にほかの目的でのる人はいないから「何回ぐらいダイビングしましたか」と聞いてみると200回ぐらいしたという子供のときしてそれからときどきしているという。ぼくは人を尊敬することはめったにないがかくありたいという基準はもっている。それはいくつになってもなにかに挑戦して目的をもって生きていくこと。そういう事をしている人はステキだと思う。彼女はアメリカ人だがわざわざパラオまできて、かなりきつい環境である海にもぐるという行為をすることにぼくは感動した。その後どういう不都合からか客がなかなかこなくてふたりでしゃべっていると日本人らしき人たちがきた。その後アメリカ人らしき男ものりこんできて、やっと出発した。日本人と思ったのはまちがいで彼らはホンコン人であった。7人のグループだ。そのうちのひとりは話好きでいろいろぼくに話しかけてきた。この船はダイブマスターや船長、アシスタントもみんなパラオ人で結局日本人はぼくひとりということになった。船は日本製の漁船を使っていたがエンジンは200馬力の船外機を2台もつけていたそれでギュンギュンとばして走る。とばされそうになりながらしがみついていた。それでもダイビングスポットまで1時間ぐらいかかった。途中ロックアイランドとよばれる大小さまざまなマッシュルーム型のしまじまをとおりぬけていった。これらの島はすべて水面付近が1〜2mぐらい波に侵食されている。これらの島は日本占領時代にパラオ松島といわれていたとガイドブックに書いてあったがまさにそんなかんじでどうも熱帯の島にいるという気持ちがしない。

 ジャーマンドロップというスポットについた。これはジャーマンチャネルという水路の近くにある。第1次世界大戦でドイツが負ける前までドイツ領だったのでドイツ人が作ったのだろう。ぼくはウエイトは6キロだと言ってウエイトを3つわたされたがどうみても1つが2キロあるウエイトとは思えなかったので再度確認したが「大丈夫」とそこだけ日本語でいうので信じてとびこんだがいざ潜行というときにまったくしずまない。そらみろちがっている I can't descendとさけんだらさすがすぐにウエイトをもってとびこんできてくれた。ウエイトを3つポケットにいれてくれた。ウエイトは1つ1キロだったのだ。ヤードポンド法を使う国ではちゃんとポンドでいわないとだめだとさとった。

 みんなはどんどん潜行していく。気がつくと28mだ、だが他の連中はもっと下にいる。ライセンスの確認はしないは、いきなりどんどんもぐるは、いったいどうなっているんだとおもいつつ20m以下まで浮上した。彼らもすこし浮上してきていっしょに泳いだ。70才のアメリカ婦人は浅いところをマイペースでダイビングしていた。後できいたら浅い海ほどカラフルでさかながおおいからすきだと言っていた。たしかにそのとおりだ。ここにはさかなは思ったほどいなかった。

 ランチの後、話をするとホンコン人は医者で丸山ワクチンを買いに東京ついでに観光で京都に来たことがあるという。ホンコンが中国に返還されたらどうするのと聞いたらまだわからないと言っていた。

 2回目はドロップオフになったところであったがとりたててすばらしいところではなかった。

 支払いのときホンコン人とアメリカ人は同じグループだということでまけさせたのでぼくも同じホテルにとまっているから同じグループだといってまけろとねばったが1ドルも負けてくれなかった。

 2日目はホテル内のショップ、スプラッシュのダイビングに参加した。ジャーマンドロップの別スポットへ行ったがいまいちさえない。きのうよりおだやかになりさかなもおおく見たがこれがパラオだという感動がわいてこない。

 ランチは無人島に上陸して食べた。それが絵はがきででてくるようなすばらしいやしの浜辺で少しのよごれもない波がさらさらと打ち寄せてくる。さすが南洋だと感動してしまう。きのうのランチも別の無人島だが海の家のような無料の休憩所があった。ここもそうで休憩所がある。ほかにも2ケ所ぐらいみた。最初ダイブショップが共同で作ったのかとおもっていたが聞いたら政府が作っているのだという。気のきいた政府だ。

 午後からはバーナムというスポットにいった。エンゼルフィッシュ、ハタの仲間がいた。 3日目はブルーコーナーという有名なところに行った。これこそパラオだというスポットだ。同じ船のひとりが耳抜き(鼓膜の中と外の圧力を均一にする動作)ができず、彼女はあきらめて浮上した。ここは流れが強く必死で泳ぎながら進んだ。いちばんおどろいたのはサメが3匹もほんの3mぐらいのところを泳いでいることだ。まさかサメがいるとは予想していなかったのでこちらにきたらどうしようと不安が頭をよぎった。しかしダイバーはぼくひとりではないのでほかのだれかが犠牲になるほうが可能性が高い気がしてぼくがえらばれないことを願った。グループの中ではダイブマスターとよぶガイド兼インストラクターの後を泳ぐようにして一番うしろにならないようにした。ここはほんとうにさかなが多くハタの仲間やベラ類もたくさんいた。突然前方に黒いかたまりがみえてきた。それはナンヨウカイワレの巨大なむれだった。それがだんだん近ずいてきてぼくらはむれの中になった。人間はどちらかというと潮流にそって泳いでおり、カイワリたちはさからって泳いでいるのでさかなが泳いでいてもあまり前に進んでいない。むれの横やときには中に他の種類のさかなもまじっている。そしてサメもこちらに泳いできた。だんだん潮のながれが強くなりぼくは近くの岩に注意深くつかまった。そういうところには毒のあるさかながカモフラージュしているということを習ったからだ。見るとみんな同じように岩につかまっている。それどころか他のグループのダイバー30人ほども向かいの底の方でつかまっている。それは非常にこっけいな光景で背中にエアータンクをしょった奇妙なかっこうの生き物がむれをなしてへばりついているのだからさかなもおかしなものがたくさんおるなと思ったことだろう。無数のさかなのむれが必死で流れにさからって泳ぎ、その下でダイバーがやはり流れにながされないように岩につかまっている。ところがサメはその中をゆうゆうといったりきたりしている。よほど力があるのだろう。ここでみているとはるか下の方まで、またはるかむこうまでまわり中さかなさかなという状況になった。ずっーとぼくらはその光景にみとれてみいっていた。近くのリーフではニザダイ科の長いおっぽをしたサザナミトサカハギやベラ科のカザリュウセン、ツユベラがいる。動かないでいるとサンゴの近くにくる目のさめるような青や黄色のスズメダイの仲間がやってくる。ダイブマスターが手まねきし、安全な方にいった。それから安全停止をして浮上した。

 ランチのときダイブマスターのキースの話をいろいろ聞いたが彼はアメリカではフロリダの方でよくダイビングしたそうでマイアミは覚醒剤による犯罪の町とかし危険でしようがない、もぐるなら半島先端からのびるキーウエストなどがいいと言う、またバハマもすごくきれいだという。アメリカではダイビングは近いのでランチなしだが75ドルぐらいだという、パラオは85から90ドルだ。まったく高い、まったく足元をみられている。

 最後に潜ったのはニュードロップオフというスポットでここもさかなは異様なくらい多いところだ。船ではやく準備ができたのでエントリーしたが後がなかなかこない。3分ぐらいの時間だったがもう下にサメがいることを知ってしまったので気がきではない。こんなところでひとりただよっていたら格好の標的だ。急にバタバタしてはだめだということを思い出し足をとめたりした。はやくだれかエントリーしろそうすれば確率はへる。ここでは特にフォーラインスナッパーやウメイロモドキがかなり大きなむれをつくっていて彼らと並んで泳いだ。いっしょに泳いでときどきつかまえようと手をだすのだがうまくすばやくにげてまったく手づかみというわけにはいかない。ここは潮流もほとんどなくちいさなスズメダイ科のさかな、マジリアイゴのあざやかな黄色、体のうしろの方にしかせびれのないカワハギのこどもがちょろちょろと泳いでいた。

6 おみやげ

 ストーリーボードというパラオの伝説の1シーンを板にきざんだ民芸品が有名だ。それと貝がらを買っていこうと思いいろいろな店にいった。ストーリーボードは有名なのでどこも高いが1軒かなり安いところがあってそこで買った。貝がらはまったく店によりでたらめで一番ひどいところが貝の博物館というところ。ここではタカラ貝を140から180ドル、ノーチラス(オウム貝)を40ドルで売っている。ノーチラスはオーストラリアで10オーストラリアドルで買ったのでここは5倍、タカラ貝なんか2〜3ドルだからここは100倍ぐらいで売っている計算になる。ぼくはいろいろな店にいきぼくのもっているのと同じサイズのノーチラスの値段をみて高いか安いか判断した。安いところはやはりタカラ貝でも2〜3ドルだ。貝の博物館はきわめて悪どい。日本人がやっている店もあったが日本語で親切そうに話しかけるからいいと思ったら、おおまちがいでやはり2倍ぐらいは高い。いっしょにもぐったアメリカ人が200ドルのタカラ貝をみつけたと喜んでいたがおおかた貝の博物館の値段をみてそう思ったのだろう。かわいそうに。

          パラオ日記

90.8.25土  はれ

 午後8時25分コンチネンタルミクロネシア航空CO972で出発。今回の旅行は非常にせっぱつまったものだった。23日にすべての予約がとれて、24日にすべての旅行用品の準備をしてT/Cを買い、ダイビング保険にはいり、きょうの朝スーツケースを買ってきて荷物をほかしこみ旅立った。まったくひや汗ものの出発だ。

90.8.26日  はれ

 午前0時13分にグアム着、しかし入国手続きなどで0時40分にホテルに向かう、いろいろなホテルを順番にまわって人をおろしていくので結局PIA RESORTについたのは1時半をすぎていた。パラオ行きは7時50分なので5時50分にまた空港に行かなければならない。すると起きるのは4時40分ぐらいになる。なかなか寝付けず、結局5時16分に迎えにきた人に起こされたが2時間しかねれなかった。これならほんとうに空港にいたほうがいい。だいたい名古屋の出発は昼ごろといっていたのでそれならとまる価値もあるが夜の出発でホテルをとる旅行社の方がどうかしている。

 7時50分にCO950でパラオに出発、途中ヤップ島に立ち寄ったので10時30分ぐらいについた。国の玄関である国際空港の前がジャリ道だったのでいきなりびっくりした。

 ホテルについてからしばらく散歩をした。プライベートビーチがあり、ディンギー、カタマラン、セイルボード、マリンサイクルがある。へやにもどりねっころがってガイドブックをみていたら夕方まで不規則で不十分な睡眠だったのでベッドでねてしまった。ベラウツアーの久米という男から電話があり「空港まで迎えにいけなく申し訳ない。あしたホテルまでうかがいます。」といってきた。この電話で目がさめた。

90.8.27月  はれ 風強し

 NECO MARINEという会社のダイビングをした。ジャーマントリップと名前のないスポットの2つだ。70才のアメリカ婦人とほかにいっしょのグループだというアメリカ人1人、ホンコン人7人、

 久米はこなかった。

 夜、夕食をしてからプールの方にいくと人が手でこいと合図をするのでいってみるとパラオ人がビールを飲んでいる。ティモシィという名前でプールやタオルの管理をしているという。いっしょにパラオのことを聞きながら夜中までビールを飲んだ。

90.8.28火  はれ

 スプラッシュというホテル内に店をもっているダイビングショップでダイビングした。

 別のジャーマントリップとバーナムウォールというところでもぐった。

 久米がきた。リコンファームをするためチケットを持っていった。空港まで迎えにこれなく自費でホテルまで来たのでその費用を彼に払わせた。彼にコロールの町までつれていってもらった。レストランの前でおろしてもらい中にはいったらいきなり閉店ですといわれ出てきた。もう7時ぐらいだった。みしらぬ土地で地理もわからんのに夜歩くのはよくない感じがしたがしばらく歩いた。スターライトというレストランがありそこにはいった。いきなり日本人が日本語でいらっしゃいませというのでびっくりした。彼女はここで働きながらダイビングをしているのだ。奥へいくとなんとスプラッシュの長尾さんがきょうついた女の子と夕食を食べていた。なんと世間の狭い国だろう。

90.8.29水  はれ

 最後のダイビングをした。ブルーコーナーとニュードロップオフというところにいった。感激した。最高のスポットだ。サメはいる。さかなの大群はいる第1級のスポットだ。

 ダイビングを終わってから急いでコロールにいったがバラオで唯一の本屋、MOCブックストアは閉まっていた。4時半が閉店時刻、10分遅れてついた。ぼくはパラオの歴史と社会について書いてある本がぜひほしかった。日本が占領していたことが彼らにどう認識されているのかしりたかったし、世界で最初の非核の憲法をなぜどういう経過でつくったのかぜひ知りたかったからだ。

90.8.30木  はれ

 ヨットにのるつもりだがティモシィが干潮で風が弱いから11時ごろでないとだめだという。なにかのせたくないような感じだ。

 午前中はコロールにいくことにする。MOCブックストアでパラオの本を3冊かった。

 12時ごろホテルにもどりティモシィにのるよというとまだだめだ。1時にしてくれというので1時にいった。すでにフィッティングがしてありやっとのれた。しかしティモシィはいなかった。勤務明けとの話。自分の勤務中には乗せたくなかったのだろう。ぼくがヨットにうまく乗りこなせるか心配で遭難でもしようなら責任をとらせられると思ったのだろう。

 4時からまた、コロールにいった。歩いていったらちょうど1時間かかった。

 貝の博物館というところはべらぼうな値段で貝殻を売っている。ちょっとしたタカラ貝が140〜180ドルする。ノーチラスが40アメリカドルだ。ぼくがオーストラリアで買った同じぐらいのが10オーストラリアドルだったから5倍以上だ。ダイビングの初日アメリカ人が200ドルのタカラ貝をみつけたと言って喜んでいて、あのときなにねぼけたことを言っているんだと思ったがあながちそうでもないらしい。

 国立博物館にも行ったがこれが国立かと思うような建物だがそういうことは今後思わないようにしよう。

90.8.31金  はれ

 パラオ最後の日だ。貸し切りでタクシーをのり、バイの家をみた。写真に撮ったら住民がたいへんおこった。物価が高いので手持ちがなくならないように倹約していたがもう最後だからいろいろ使える。MOCブックストアでこのまえほかにもほしかった本を何冊か買った。ベンフランクリンという店でも本とTシャツを買った。民芸品のストーリーボードも買った。

 午後8時のCO959でグアムにむかった。

90.9.1土   はれ

 グアムには午前0時30分に着いた。待合室のソファで仮眠した。デューティフリーショッパーズで山のようにおみやげを買っている何人かの日本人をみて、これがおみやげ難民とバカにされる日本人かと納得した。

 そしてCO951で午前8時25に名古屋に向かった。

 名古屋には午後0時10分に着いた。

 家には2時半についた。ついきのうまで何千キロもはなれたところにいたことが信じられない感じだ。

 

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