スリランカ2013年
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スリランカ旅行  2013年10月9日〜10月29日 21日間 骨折旅行

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今回のスリランカ旅行での為替レートは1スリランカ・ルピーが約0.76円である。1988年25年前は1ルピー約4円であったから、円高ルピー安で5.26倍、円の価値が上がっている。しかしスリランカの物価も上昇し概略10倍以上にはなっている感じ。

25年前1988年10月に初めて海外に行った国それがスリランカ。当時はLTTEタミール・イーラム解放のトラ(タミール人)とJVP人民解放戦線(シンハラ人)という2つの組織がそれぞれ 政府に対して武力闘争を行なっていた。ぼくが仕事で6週間滞在していた半ばに、JVPが爆弾テロをして首相が外出禁止令を宣言し、それが翌日からは夜間外出禁止令となり、 夜8時以降、外出禁止となり滞在中解除されることはなかった。 当時のある日曜日コロンボでいろいろなところに行き午後7時になったのでトゥクトゥクタクシーにのって空港近くのホテルに帰ろうとした。いつもなら客待ちタクシーが誘いをかけてくるが行く先を聞くと誰も行かない。長距離なので見入りはいいはずだか。そこではっと 気がついた。ぼくのホテルまで行って帰ろうとすると8時を過ぎてしまい取り締まりの対象(みつかれば無条件で警備警官に発砲される。)になるため行かないのだ。どうしようか考えて国営バスで帰ることにした。国営だから8時まで 公務路線運転をして車庫に帰っても許されるからだ。JVPはそういう意味ではぼくには因縁のある相手で許すことができない組織だ。

JVPは1971/4/5に武装蜂起し、セイロン全島の2分の1を占領していたがイギリス、アメリカ、ソ連、インド、パキスタンにより鎮圧されたとのこと。ぼくが前回行った前年の1987/6/10に防衛アカデミーとカトナーヤカ空軍基地を襲撃し武器弾薬を強奪した。1988年クマーラトゥンガ前大統領の夫ウィジャヤ・クマーラトゥンガが暗殺された。その後、JVPは武力闘争を止めて現在は合法政党となっているが人殺し集団が改心したら、そんなに簡単に合法化されることに納得できない。現在では日本共産党とも2005年5月27日に会談して友好関係にあるようであきれる

この25年間スリランカの動静には注意を払ってきたがLTTEの方は2009年5月に指導者が政府軍との戦闘で死亡して組織は壊滅、内戦は終結した。それから4年たつが残党がテロをしたとの報道もなかったので 今回旅行することにした。

25年前とはいくら内戦で戦費に国家予算をとられてもインフラ整備などは進んだことだろう。実際南部のゴールに向かうサザン・エクスプレス・ウェイという高速道路ができているという。後にそれを利用してみたがさすがにゴールまで早く着く。日本との時差が3時間30分あり、(実際はどう考えても3時間33分ずれているとしか思えないが。)1988年当時はコロンボ空港の建設事務所に朝8時30分に出勤すると日本ではちょうど昼休み、1時間後に日本に電話してもなかなか通じたという連絡が電話局から来ない、結局1日中つながらないときも多かった。日本と連絡が取れるとホッとして1日の仕事が終わったような気分になった。ところが今回、行く前に国際電話で2、3か所のホテルに電話してスリ・パーダは登山できる状況かとか、国立公園のサファリは開園しているかなどの問合せがダイアル直通ですぐ通じた。そしてスリランカに着くと携帯電話が大幅に普及していた。また高速道路もさらに空港とコロンボ間が帰国2日前の10月27日には開通した。スリランカの地図を買って見てみるとキャンディや北部のジャフナまでの高速道路も計画または建設中となってのっていた。北部のジャフナまでなどはJVPがどうせ建設反対していることだろう。

ところがスリランカに着いて2日目に右足首を骨折するという初めての経験をして思わぬ展開となった。

韓国ソウル南大門

出発初日は韓国インチョン空港で乗り継ぎに7時間半待ち合わせの時間があったので途中下車してソウルの南大門に行ってみた。AREXという空港鉄道で40分ほどでソウル駅の地下7階についた。 ぼくにとって韓国はまったく行く気のない国の1つだから行ったことはないがついでなので見てみた。ソウル駅を出るとホームレスの人が何人も寝ていた。かつて新宿でも地下通路にホームレス段ボールハウスが並 んでいたが同様に駅近くの地下通路で数十人の人が並んで寝ていた。

ソウルスクウェアという名称のソウル駅の向いにあるビル。夜になると壁面全体がいろいろなイルミネーションで輝く。韓国では漢字は使用しないようになったと聞いていたが「可能性」と出ている。

   

ホームレスの並ぶ地下通路。  右はソウル駅前にある姜宇奎の銅像、帰国後調べたら日本が植民地にしていたころ斎藤実朝鮮総督を暗殺するためにこのソウル駅前で爆弾を投げたが失敗したとある。銅像は手に爆弾を持ったもの。韓国の日本に対する恨みは深いものだと思った。

南大門は 放火により全焼したが、訪問したときは再建されていた。そもそも放火され部分焼失ではなく全焼という事が油断である。帰国後調べたが2013年4月に復元工事が終了したが10月には手抜き工事が判明、32本の柱に使用した木材の内、確認されただけでも3〜4本、予測では7〜8本が本来予定されていた韓国産の金剛松ではなく価格が100分の1程度の安価なロシア産であったことが判明した。2014年5月になって手抜き工事以外に職人の独断で燃えやすい油が使われたため火災の危険があり、再工事が必要とのこと。まったく話にならない。

この近くに南大門市場という繁華街があり、そこでタチウオ料理のヒラクという店で食事をして空港にもどった。

   

                       南大門と南大門市場

コロンボ

翌朝、コロンボに到着。フォート駅近くのホテルを取った。その後市内を散歩していた。3度ほど「きょうは仏教の記念日だ。パレードがある。案内してやる。」という声かけを受けた。 異なる場所で3人に言われたのでほんとうかなという気もしたが、相手にはしなかったし、それらしいパレードはなかった。 この手の詐欺があるとのこと。国立博物館やコロンボ最大のガンガラーマ寺院、ペイラ湖の寺院を見た。そこで2組の新婚カップルの記念撮影に 遭遇。聞くとキャンディ様式の衣装だという。(キャンディは古都の名)。道路にはリムジンが止まっていて裕福なカップルだ。

このように新婚さんが民族衣装で俳優さながらにそれぞれの名所で記念写真をとっている風景はその後に行った各所で2、3日に1度は見た。そして名所なので大抵は複数組がきていた。

  

2組の新婚カップル。左はキャンディ式の衣装とのこと。右の写真では白い衣装が新婦

  

新婦より付き添いの女性の方が美人。    新婚が乗るリムジン。シーマ・マラカヤ寺院での光景

外国に来た初日は案外と金額の張るレストランに行くことがあり、今回もシーフード専門レストランでアペリティフにスクリュードライバーを飲み魚料理なので白ワインを1本飲んだ。その後飲み足りないので日本ではまず行かないヒルトンホテルのバーでドライマティーニとヒルトンオリジナルのカクテルを飲んだ。その オリジナルカクテルのレシピを聞いて飲ん で見たらフローズンダイキリそのものなので「これはオリジナルカクテルではない。フローズンダイキリそのものではないか」と文句を言い出てきた。そしたら、そちらのオリジナルカクテル代は請求されずドライマティーニのみの請求であった。さすがヒルトンは自分の非を認めたかと思いヒルトンを出た。その後そこから歩いて帰ったのがまずかった。この国ではヒルトンに出入りする人間はタクシーに乗るのだ。歩いたため悪いやつにつけられた。

その後、コロンボ・フォート駅で何が原因か記憶にないが脅されていろいろ議論したが、らちがあかないのでペター警察署に行き、事情を説明し、警察官はなにやら書いていたが、それが公式のものかは不明。もどるとまだそのチンピラ連中がおり、近くの露天商がラジャ・マハだとか何かいまでははっきりした名前は思いだせが名前を教えてくれたので、それを報告しにまたペター警察に行ったがチンピラがついてきて警官と話しをしている。そしてその名前をいうと警官の態度がかわった。もうこれはツーカー状態でもうダメだと思った。警察の外にはチンピラが待機していて出るとどこのホテルだとか聞く。 たぶんホテルにもどれば受付を脅して部屋にはいってきて密室の中で何をされるかわからないと考えて、どうせ明日は次の目的地アヌラーダプラに行く。警察署で夜を明かすことにした。そうして警察の玄関の前の階段でしばらく座っていると突然ドブネズミが2匹追いかけっこしながらぼくの方にまっしぐらに走ってきた。ぼくはドブネズミが飛びかかってくるかと思い飛び上がった。そして着地した。そのとき階段の途中であったので左足は階段ステップの上に着地したが右足はステップのへりに着地し、体重がかかったはずみにガクンとして痛みと熱い感覚がはしって骨折した。

警官に救急車を呼んでくれと頼んだが警官は笑っている。警察署内でケガで救急車を呼ぶとやっかいだと思ったのかトゥクトゥクタクシーを呼んだ。もう翌日になっており事故は2時ごろ。病院についたのは3時ごろだった。その後このときのトゥクトゥクタクシーの運転手とは旅行で専属運転手のような付き合いとなった。この文章ではP.S.J氏と略すことにする。彼の説明ではP.Sは父親の名前の略だという、そして最後が自分の名前、たとえばP.S.Rājapaksaという具合でこのように署名する。さらに愛称もあるとのこと。つまり姓はないようだ。父親の名前が姓の代わり。東南アジアでは他国にも姓がなく親の名前の一部を使用している国がある。

  

国の玄関ともいえるコロンボ・フォート駅だが小さくてさえない。 右はジャム・ウル・アルファー・モスク

  

左からセイロン銀行本店、2つの世界貿易センター、右の手前は旧国会議事堂、軍隊がいる。その後ろがヒルトン・ホテル

ゴール・フェイス・ホテルは改葬中だが軍隊がゴール・フェイス・グリーン公園を警備している。旧国会議事堂を中心に軍隊の警備が何人もいる。

コロンボの病院

入院した病院はGENERAL HOSPITAL COLOMBOという名称のたぶん国立病院である。なぜなら主要都市には同様のGENERAL HOSPITALなんとかという病院があり、これらはすべて医療費無料であるとのこと。ぼくは外国人として入院したから有料だろうと思っていたがやはり無料であった。25年も内戦が続き戦費にかなりの予算を振り向けざるをえなかった。その間には他国に追い抜かれアジア最貧国とまで呼ばれた国で医療費無料とはすごいと思う。ただし民間病院は有料である。国名がスリランカ民主社会主義国だからだろうか。(1977年国名変更) もちろん共産党の1党独裁国ではないし、そういう政党が多数派になり政権を担当したこともない。JVPが政権に参加したこもあるが2004年12月に離脱している。JVPのくずどもはテロはやめたが多数派シンハラ人優先主義で当時停戦中だったLTTEとインド洋大津波で政府と協力してタミール人地域を復興する合意に抗議して政権離脱したのだ。つまり北部のジャフナなどタミール人居住地域などの復興は必要ない。自分らだけが良ければいいという、もともと人殺しの毛沢東主義者で正真正銘のろくでなしどもである。複合民族国家で多数派のシンハラ人優先主義を取ればどうなるかは独立以来のそういう政策のはてにタミール・イーラム解放のトラができてきた経過からも十分わかるはずだが自分らの人気取りのためにそういうスローガンを掲げているJVPは真の害虫、人類にとって不倶戴天の主敵である。

ところでこの病院もやはりスリランカらしい国民性の現れたものであった。つまり壊れたものは壊れたままか、修理せず、そのまま撤去という状態。外科病棟はほかにもあるかもしれないがぼくのいた所は6人用や4人用の高さ1mほどのコンクリート製の間仕切りはあるが上部は開放しているので1フロアー1部屋の病室ということになる。4人用間仕切りにも6個ベッドをいれて6人用としている。それにとどまらず真ん中にある通路の両側にストレッチャーを隙間なく並べてベッドとして使い収容人数をふやしている。ぼくはストレッチャーではなくベッドに乗ることができた。治療をしてもらって悪くいうのもなんだが、この病院はいわば野戦病院のようなありさまでドクターも患者もところかまわず携帯電話を使い放題であり、設備も貧弱、退院した患者の空きヘッドをみるとマットレスが縦に割れて中身が見えているがそのまま次の患者に使用していたり、シーツは換えない、点滴を吊るす金具はなくカーテンレールにひっかけてる。ベッドごとのカーテンはあるが介助の必要な患者の着換えや排泄のときのみ使用する。身障者トイレのドアロックは壊れており、外側からひもでドアをしばり、つれてきた介助人がどこかに行ってしまうとドアをガンガンたたいて誰かを呼ばなければならない。フロアーの反対側にあるもうひとつのトイレはすでにゴミ捨て場と化している。手術室でさえ、一般照明の蛍光灯は切れたり、カバーが割れたままであったりした。補修費が予算化されていないのかもしれないが職員も気にしていないようである。すさまじい病院である。照明器具が壊れてため撤去し、そのあとの電線がテーピングしてまるめてあるのはその後宿泊したどのホテルでもあり、そういうことは常態化している。

後にわかったがこの病院ではほとんどの外科または整形外科の患者は最低1泊するのだ。手の指2本に包帯をしているだけの人や足の親指に包帯をしている人、土曜の夜けんかでもしたのか頭に絆創膏をはって服にそのとき飛び散った血がついた人が入院していたが彼らはみんな翌日の昼ごろ退院している。大学病院ではないが教授回診のようなことが午前中、頻繁にある。外科部長のようなドクターについて若いドクターが続きナースも何人かつきそう。患者の足元のベッドの上にレントゲン写真やカルテがおいてあり、患者に症状を聞いたり、他のドクターと話している。ぼくにはどうして骨折したと聞かれた。しばらくすると別の一行が来て、またどうして骨折したと聞かれる。ついてきている人はインターンだという。またしばらくすると別の一行が来る。ついて来ている人は学生だという。同じ質問に回答する。若い担当医らしい人が来てまた聞く。さらにオペレーションを担当するというドクターが来てオペレーションの説明をしてくれる。

ぼくは入院当日の午後オペレーションするよといわれた。オペといえば手術である。足を切り裂くのかと不安になったがドクターは隣の患者の足のギプスを指差してプレスター、プレスター(石膏つまりギプスのこと)だけだよというので安心した。ところがいざそのオペレーションのときになると素っ裸になり手術室に入っていく。そして血圧を測り心電図の電極をつけるのでやっぱり切るのかと不安になりドクターに再度確認するとやはりプレスターを作るだけだという。日本でギプスを作るならこんな大仰なことはしないのでびっくりした。その後注射を打たれ全身麻酔がされた。「WAKE UP WAKEUP」という声で麻酔から覚めたらギプスができていた。長い間イギリスの植民地だったのでイギリス流を踏襲しているのかどうかはわからんがギプスを作るのに手術室で全身麻酔とは驚いた。ぼくが外国人だからぼくが帰国してスリランカはこんなものだと笑われないように周到にしたのかもしれない。ギプスの材料もナースが準備しているとハイテンションなんとかという材料に換えさせたこともそういうことかもしれない。しかしこのハイテンションなんとかはつまり、高張力なんとかという材料のことであるがそのせいか、足がむくんだせいかその後ギプスに圧迫されて何の被害もない足の指が変色し、それが広がりむくんできた。このままでは足が壊死してしまうのではないかと思い、そのため5日後にギプスの甲の部分をひっぺがしてやった。 その後再度この病院に行きむくんだ足のサイズでのギプスを作ってもらったが、今度は手術室の廊下のストレッチャーの上ででいきなり作ってくれた。前回とは大違いだが、ギプスを引きちぎったことに怒っているドクターもいたから仕方のないことだ。しかし若いドクターで観光はよく行けたか、アヌラーダプラやポロンナルワはよかったかと聞く人もいた。

旅行の続行

最初のギプス作成後ドクターやナースからは退院後、帰国した方がいいと言われた。特に外科部長のようなドクターからは早くビジネスクラスで楽な姿勢で帰りなさいと言われた。もちろんいろいろ考えた。しっかり直してまた来ればいいと言われて、そう考えるのは常識的な判断だ。しかし25年ぶりで平和なスリランカをしっかり見ようと3週間も休んで来たのにコロンボの一部を1日見ただけでおめおめと帰れるかという気持ちも強い。「骨折り損のくたびれもうけ」という格言をまさに字義通りしたことになる。それにすぐに帰るなら正規航空運賃で航空券を買うはめになる。その上、ビジネスクラスの航空券なら数十万円もするだろう。保険会社に問合せもできない中でそういう費用を払う必要があるのか。帰国してもギプスをはめて生活するならスリランカで松葉杖を調達して旅行を続けても同じことだ。そして一番いいのはスリ・パーダの登山やヒッカドゥワでのスキューバダイビングやキャンディなどいくつかの観光地はあきらめても旅行を続けて当初日程の航空便で帰るのが最も悔いが少ないと結論し旅行を続けることにした。

10/14の月曜日まで入院させてほしいと頼み、了解されていたが、10/12の土曜日夜に休み前で騒いだのか、けが人が何人も入院した。日本では入院にならない軽傷者も入院なので満員になり、エレベーターホールにまでストレッチャーがあふれていた。ぼくがトイレに行っている間にぼくが使っていたベッドは他の患者にまわしストレッチャーに移され1時間以内に退院するように言われ10/13に強制退院となった。

退院

退院して明日はアヌラーダプラに行くことにしたが、きょうはどこのホテルに行こうかと考えているとトゥクトゥクタクシー運転手のP.S.J氏が兄の家で泊まり、明日出発しようというのでそうした。兄とは病院に来た時、面識があり、ある保険会社の Field Operation Managerという名刺をもらった。その家の位置はコロンボのどの辺かまったく見当もつかないが住宅地で比較的裕福な人たちの居住地のような気がした。どの家もマイカーがあり2階建ての家も多かった。兄はP.S.A氏であり、父親は同じなのでP.Sが最初につく。しかし日本の家と比べればやや狭い3LKという感じ。娘の部屋をあけてぼくに貸してくれたため父親と息子、妻と娘が1部屋ずつ使い、10畳ぐらいの居間、ふろはなくシャワー室兼トイレとキッチンである。ベッドで寝るとなぜか、何かがいるような気がする。虫よけスプレーをかけて寝るともぞもぞ感はなくなった。P.S.A氏の奥さんの兄が道路の向かいにすんでいて、P.S.A氏は奥さんが財産わけしてもらった土地に家を建てて住んでいることになる。奥さんの兄の家には奥さんの両親も住んでおり父親が松葉杖を持っていてそれを旅行が終わるまで貸してもらった。つまり、ややっこしいがP.S.J氏の兄P.S.A氏の奥さんの兄と同居する父親の松葉杖を借りたということ。P.S.A氏の奥さんの兄宅には後で訪問して歓談した。家具調度は重厚なもので裕福な家だと感じた。そのときアヌラーダプラの近くにアーユルヴェーダの偉い達人がおり、折れた骨も1日で直してしまうから、ぜひついでに寄ってなおしてもらったらいいという。たしかにアーユルヴェーダということがガイドブックにも書いてあり、それを実施する有名ホテルもかなりあるとは知っていたがそれはリクラゼーションであり伝統医療の側面はあっても骨折を1日で直せるならそれは魔法であり、できるわけがない。しかし彼らは信じているようであった。

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